「ただ、憐れみを求めて」マルコによる福音書 10章47節 ローズンゲン日々の聖句

「ただ、憐れみを求めて」

2026.1.17 伝道師 青木宗達

新約聖書 マルコによる福音書 10章47節
ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めた。
(協会共同訳)

 わたしたちの父なる神と、主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなたがたにありますように。

 協会共同訳聖書で、この箇所は「盲人バルティマイをいやす」という言葉が「小見出し」として添えられています。

 エリコの町を出て、エルサレムへと向かう道のりの途中、目の見えない物乞いバルティマイが道端に座っていました。
彼の生活は闇と孤独の中にありました。
しかし、彼の耳は希望の音を捉えます。「ナザレのイエスだ」という人々の声を。
そして、彼は叫びました。

「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」

 ここで注目すべきは、彼が「ナザレのイエス」という地名付きの呼び名ではなく、「ダビデの子イエスよ」と叫んだことです。

 「ダビデの子」とは、ユダヤ人が待ち望んでいた「救い主(メシア)」を意味します。
肉の目は閉ざされていても、彼の心の目は、通り過ぎようとするお方こそが、自分を暗闇から救い出せる唯一の希望であると見抜いていたのです。

 更にバルティマイは「私を憐れんでください」と叫び続けました。
周囲の人々は彼を「うるさい!」と叱りつけ、黙らせようとしましたが、彼はより一層激しく叫びました。

 ここに、私たちが学ぶべき信仰の姿があります。
それは、自分の力や功績を誇るのではなく、ただ神の愛と慈しみにすがりつく姿勢です。
「憐れんでください」という祈りは、自分には誇れるものが何もないことを認め、神の恵みなしでは生きていけない魂の叫びです。
周囲の雑音や、「自分なんて」という心の迷いが、主へ向かう声を遮ろうとするかもしれません。しかし、主の恵みは、求め叫ぶ者に対して決して閉ざされることはありません。

 今、あなたの心にはどのような叫びがあるでしょうか。
孤独、不安、あるいは誰にも言えない弱さかもしれません。
周囲の目や常識を気にして、その声を押し殺していないでしょうか。
バルティマイがなりふり構わず叫んだように、私たちも、ありのままの自分をさらけ出して祈ってよいのです。

 神様は、群衆の騒めきの中でも、あなた一人の小さな叫びを聞き逃すことはありません。
立ち止まり、あなたを招き、光を与えてくださるお方。
それが、私たちの救い主、イエス様です。
今日も、イエス様に憐れみを求めて、共に歩んでまいりましょう。

お祈りいたします。
天の父なる神様。
日々の生活の中で、苦難も喜びもすべて、私たちが心から、ありのままの姿でさらけ出し祈ることができますように私を変えてください。
子どもが父親に「とうちゃん!」と甘え抱きつくような、親密な神様との親子関係が、これからも築けますように。
主イエスキリストの御名により、お祈りいたします。
アーメン。

リビングバイブル(いのちのことば社)
新約聖書 マルコによる福音書 10章47節

ナザレのイエスのお通りだと聞いて、バルテマイは大声を張り上げました。
「イエス様、ダビデ王の子よ!どうぞお助けを!」