JTJ宣教神学校説教演習 青木宗達「Jesus to Japan~私たちが向かうカファルナウム」

日時: 2026年2月2日(月) PM19:10~19:30
聖書: 新約聖書 マタイによる福音書 4章12~17節
説教: 青木宗達
説教タイトル: 「Jesus to Japan~私たちが向かうカファルナウム」

【聖書朗読~会衆と声をあわせて】(1分)
12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
15 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
16 暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
(新共同訳聖書)

説教】(19分)

 わたしたちの父なる神と、主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなたがたにありますように。

【導入】

 本日与えられました聖書の箇所は、主イエス・キリストがいよいよ公けの活動、「公生涯」を始められる極めて重要な場面です。しかしそれは、華々しいファンファーレが鳴り響くような、明るいスタートではありませんでした。

 先駆者である洗礼者ヨハネが、ヘロデという時の権力者によって捕らえられる。正義が踏み倒されるような「暗さ」と「緊張」の中で、イエス様の歩みは静かに、しかし力強く始まりました。

 12節、13節をもう一度ご覧ください。
 「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」

 イエス様は、目的地カファルナウムに向かわれます。本日は、そこに至るまでの進路と、イエス様の宣教への思いに心を留めたいと思います。

【観察】  

 今日の聖書箇所の文脈をたどりますと、イエス様はそれまで「荒野でのサタンの誘惑」にあわれておられました。荒野から北上してカファルナウムへ向かうのは、大変な長距離の旅路です。  
実は、スタート地点の荒野から西へわずか30キロメートルほど進めば、そこには神殿のある大都市エルサレムがあります。
もし、「世界を変える教え」を広めようとするならば、人が集まる都エルサレムで活動を始める方が、誰の目にも効率的に映ります。

 しかし、イエス様はあえてその逆、北へと向かう過酷なルートを選ばれました。荒野からナザレを経由して、湖畔の町「カファルナウム」へ。
その距離、合計でおよそ135キロメートルになります。

 135キロと言われても、すぐにはピンとこないかもしれません。  
ここ、JTJ宣教神学校もしくは上野駅から移動すると考えてみてください。
西へ向かえば、横浜~箱根を超えて、富士山のふもと、静岡県の富士市あたりまで。
あるいは、北へ向かうなら、雪が舞う温泉地 栃木県那須塩原あたりまで行くのとほぼ同じ距離です。  
当然、新幹線やクルマもなく、舗装された道路もない2000年前の話です。
岩だらけの荒野を含む、それは大変険しい道のりだったと思われます。

 ここで、その道のりに思いを馳せてみたいと思います。  
イエス様は、この135キロをどのように移動されたのでしょうか。  
人間が歩く限界移動距離は25~30kmと言われています。5日も6日も、またそれ以上かけて、足を痛めながら一歩一歩歩かれたのでしょうか。
それとも、何か背中を貸してくれる動物がいたのでしょうか。

 聖書は、その移動手段について沈黙しています。  
しかし、この「沈黙」こそが、イエス様の切迫した思いを雄弁に物語っているように思えてならないのです。

 もしこれが優雅な視察旅行であれば、旅の様子も記されたかもしれません。  
しかし、ここには記録に残るような「旅の情緒」など入る隙間もなかったのです。 

 徒歩であったか、乗り物であったか。
そんな手段がどうでもよくなるほどに、イエス様の心はただ一つ、目的地である「カファルナウム」だけに向けられていたのではないでしょうか。

 「一刻も早く、あの暗闇の中にいる人々の元へ行かなければならない」  
その愛の衝動が、聖書の行間から、荒い息遣いとなって聞こえてくるようです。道中の苦労や痛みなど、イエス様にとってはもはや問題ではなかったのです。

 重要な事実はただ一つ。  
イエス様が向かわれた先が、華やかな都エルサレムではなく、「痛みや暗闇を抱えた人々が集う場所」、当時「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、揶揄され見下されていたカファルナウムであった、ということです。

 このカファルナウムという土地は、かつて旧約聖書の時代、北イスラエルにアッシリア帝国の侵略があり、多種多様な人種が入り交じりました。
信仰的にも純粋ではないとされる、ある種の「暗闇」を抱えた土地だったのです。

【本論】  

しかし、16節にはこうあります。
  「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

 少し難しい表現ですが、これを今の言葉、私たちの言葉で言い換えるならば、こういうことです。

  「苦しみのあるカファルナウムの住民たちは、まばゆい光を見ました!  そして、絶望的な死と隣り合わせの人たちに、光が与えられたのです!」

 当時の人々にとって、「死」は遠い未来の話ではなく、日々の貧困や病の中で、常に隣り合わせにある現実「絶望」そのものでした。
彼らは、自分たちから光を求めて神殿に行く体力も、気力さえも残っていなかったかもしれません。  
しかし、そんな彼らに、光であられるイエス様の方から一方的に、暗闇の中に飛び込んで来てくださったのです。

 私は、この箇所の「暗闇」や「死の陰」という言葉を読むとき、これが単なる2000年前の異国の話だとは思えないのです。  
なぜなら、私自身もまた、かつてはそのような深い暗闇の中で、出口が見えずにもがいていた一人だったからです。
決して他人には言えない仕事や行い、不安という闇を自ら打ち破る為に、他人を騙し、傷つけ、陥れて金銭欲と自己愛にまみれた悪しき日々。 
自分で光を探そうとしても見つからない。
どちらへ歩き出せばいいのかも分からない。
それが、私が知っている「暗闇」でした。

 今日、ここに集まっておられる神学生の皆様の中にも、過去、人には言えないような暗く深い闇の中で、もがいた経験があるのではないでしょうか?  
「もうダメかもしれない」「誰も助けてくれない」
そんな、死の陰と隣り合わせのような時間を過ごしたことが、あるのではないでしょうか?

 しかし、思い出してください。  
私たちがその暗闇から脱出できたのは、自分の力で這い上がったからでしょうか?自分の努力で光を作り出したからでしょうか?そうではありません。  
私たちが動けずにうずくまっていた、まさにその場所に、イエス様の方から来てくださったからではないでしょうか。 
カファルナウムの人々にそうされたように、イエス様が私たちの暗闇に「光」として飛び込んで来てくださったからこそ、私たちは今、こうしてここにいるのです。

 この上野の街を見渡してみましょう。  
かつて「北の玄関口」と呼ばれたこの上野は、故郷を離れ、夢や不安を抱えて列車を降りた多くの人々の歴史が刻まれた街です。美術館や公園といった文化の光がある一方で、ガード下の喧騒や、行き場のない孤独を抱えた人々が身を寄せる場所でもあります。ここもまた、現代の「カファルナウム」のような場所と言えるかもしれません。

 かつての私たちがそうであったように、この街にも、心の奥底にある孤独や、将来への不安という暗闇の中でもがいている人がたくさんいます。  
 しかし、その心の深淵に届くのは、ただ一つ、イエス・キリストという「まことの光」だけなのです。

 この光の中で、イエス様は宣教の第一声を放たれました。最後の17節です。
  「悔い改めよ。天の国は近づいた」

 「悔い改めよ」。この言葉は、「過去の悪いことを反省しなさい」と迫る言葉ではありません。聖書の原文ギリシャ語では「メタノイア(μετάνοια)」。分かりやすく言えば「方向転換」のことです。それは、過去をほじくり返して自分を責めることではなく、そのままの自分が「向きを変える」ということです。今まで背中を向けていた神様の方へ、くるりと向き直ること。自分の足元の暗闇ばかりを見ていた顔を上げて、射し込んできた光の方を見ることそれが、聖書の語る「悔い改め」です。

【適用】  

では、光であるイエス様に向きを変え、その光に救われた私たちは、これからどこへ向かえばよいのでしょうか。  
最後になりますが、このことをお話しして締めくくりたいと思います。

 私たちは今、ここJTJ宣教神学校で神学を学び、説教を練習し、いかにして福音を伝えるべきか、その「方法」を模索しています。もうすぐ卒業を迎えられる先輩方もおられるでしょう。あるいは、これから始まる奉仕の現実に、期待と共に、少なからぬ不安を抱いている方もおられるかもしれません。  
「自分のような者に伝道ができるだろうか」「立派な教会堂も、人を集める力もない自分に、何ができるだろうか」と。

 しかし、イエス様がここで示された「宣教の方法」は、私たちの常識を覆すものでした。イエス様は、神殿のあるエルサレムにどっしり構えて、「真理を知りたければ、私の方へ来なさい」と受け身で待つようなことはなさいませんでした。

 そうではなく、イエス様ご自身が、生活の現場へ、痛みの現場へと「でて行かれた」のです。しかも、ただ通り過ぎる伝道旅行ではなく、聖書には「カファルナウムに来て住まわれた」とあります。そこを拠点とし、人々と共に生き、人々の痛みをご自分の痛みとされたのです。

 私たちJTJ宣教神学校の精神もまた、ここにあるのではないでしょうか。  
本校の冠である「JTJ」。それは「Jesus to Japan(日本にイエス様を)」という、熱い祈りと使命が込められた名前です。  
この「To(〜へ)」という言葉には、明確な「方向」があります。  
人が神のところへ登っていくのではありません。
イエス様が天から地へ、エルサレムからカファルナウムへ、そして「わたしたちのもとへ」来てくださった。それこそが「Jesus to Japan」の心だと思うのです。

 ですから、権威ある場所や、整った環境で待つ必要はないのです。イエス様がそうされたように、私たちもまた、現代のカファルナウムへ、人々の生活のただ中へと出て行くのです。  

私たちが遣わされる場所は、必ずしも華やかな場所ではないかもしれません。理解のない家族の中かもしれませんし、問題の多い職場かもしれません。

 しかし、イエス様は「そここそが、私が福音を宣べ伝え始める場所なのだ」とおっしゃいます。

 イエス様がカファルナウムの人々と共に住まわれたように、私たちもまた、遣わされた場所で人々と共に生き、共に泣き、そこにイエス様の愛を運ぶこと。  
かつてイエス様が、暗闇の中にいた私たちのもとに来てくださったように、今度は私たちが、イエス様を携えて日本中へ、生活の現場へ(To Japan)と出て行くこと。これこそが、イエス様がその生涯をかけて教えてくださった、今日の聖書箇所から読み解く「最も力強い宣教の方法」だと私は思うのです。

 愛する兄弟姉妹。ここからご一緒に、主に祈りつつ、それぞれのカファルナウムへと赴き「イエス様の福音」を宣べ伝えようではありませんか!

【祈祷】
一言お祈りいたします。
天の父なる神様。 イエス様が、栄光の座を捨て、暗闇と痛みの地へ向かわれたその愛をありがとうございます。かつてあなたが暗闇の中にいた私たちのもとへ来てくださったように、今度は私たちが、遣わされた場所へと出て行きます。どうぞ、その光を携える者として用いてください。私たちの救い主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。 アーメン。