「今もとりなし、祈られる主イエス」
2026.1.8 伝道師 青木宗達
新約聖書 ヨハネによる福音書 17章24節
父よ、私に与えてくださった人々を、私のいるところに、共にいるようにしてください。天地創造の前から私を愛して、与えてくださった私の栄光を、彼らに見させてください。
(協会共同訳)
わたしたちの父なる神と、主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなたがたにありますように。
この祈りは、イエス様が十字架にかかられる直前、父なる神に向かってささげられた祈りです。
ご自身の死が目前に迫る中で、イエス様は苦しみや恐れをご自分のために訴えることはされませんでした。
むしろ、「私に与えてくださった人々」のために、深い愛をもって祈られたのです。
イエス様は、弟子たちがご自身のいるところに共にいること。
そして父から与えられた栄光を見ることを願われました。
この祈りが語っているのは、救いが偶然や人の努力によるものではないということです。
イエス様は、「天地創造の前から私を愛して」と語り、父の永遠の愛の中で、人々がすでに見つめられ、選ばれ、委ねられていることを明らかにされます。
私たちの信仰の強さや完成度が基準なのではなく、神様から与えられ始まる「愛と恵み」が、すべての始まりなのです。
しかし、この祈りは未来への約束だけではありません。
イエス様は、十字架によってその祈りを現実のものとされました。
人の罪と弱さをすべて引き受け、父との断絶を越えて、私たちが神と共に生きる道を切り開かれたのです。
イエス様の栄光とは、力や支配ではなく、徹底して与え尽くす愛として現されました。
そして、このとりなしの祈りは、過去の出来事で終わってはいません。
復活され、今も生きておられるイエス様は、私たち一人ひとりのために祈り続けておられます。
信仰が揺らぐとき、道を見失うとき、言葉にならない思いを抱えるときも、イエス様は私たちを父の御前に覚えていてくださいます。
私たちは、自分の力で神に近づくのではなく、すでに祈られ、招かれ、共にいようと願われている存在なのです。
その確かな中心におられるのが、今も私たちのためにとりなし続けておられるイエス様です。
イエス様と共に、今日も一日を歩んでまいりましょう。
お祈りいたします。
天の父なる神様。
十字架を前にしても、私たち一人ひとりを覚え、祈ってくださったイエス様の愛を感謝いたします。
今も私たちのためにとりなし、共にいてくださる主を信頼し、今日の歩みを委ねます。
どうか主の導きの中を、希望をもって歩ませてください。
主イエスキリストの御名によりお祈りいたします。
アーメン。

那須ステンドグラス美術館にて。











