「エマオ途上で現れるイエス」ルカによる福音書24章26節 ローズンゲン日々の聖句

「エマオ途上で現れるイエス」

2026.3.31 伝道師 青木宗達

新約聖書 ルカによる福音書 24章26節
メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。
(協会共同訳)

 わたしたちの父なる神と、主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなたがたにありますように。

 今日、与えられました聖書の箇所、ルカによる福音書24章はフィナーレの箇所であり、その中でもクリスチャンが大好きな場面「エマオで現れる」という小見出しのついた物語です。

 イエス様が十字架で処刑され、すべての希望が打ち砕かれた直後のことです。
深い絶望に包まれた二人の弟子は、エルサレムから北西約11kmのエマオへ、夕暮れの道を重い足取りで歩いていました。
彼らの心もまた、沈みゆく太陽のように、実は「暗闇」に向かっていたのです。

そこに復活のイエス様が近づき、共に歩いてくださいます!
しかし彼らは、それが主イエスだと気づきませんでした。

 私たちも同じではないでしょうか。
濃い霧の中で車を運転している時。
また、先の見えない激しい霧の道を歩いている時。
目の前の悲しみや不安という「霧」に包まれると、すぐ隣におられる神様の存在が全く見えなくなってしまいます。
そうです。
日々の生活の疲れや、理解できない試練を目の前にして、私たちは簡単に希望を見失う本当に弱い存在なのです。

 そんな彼らに、イエス様は語りかけます。
「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか」
(ルカ24:26)

イエス様は、途方に暮れる彼らを決して突き放しませんでした。
まるで同じ旅人のようにそっと寄り添い、それまでの旧約聖書の預言者たちを通して、今日に至るまでの「預言の成就」を解き明かされたのです。
イエス様の十字架の苦しみは失敗ではなく、栄光へと至る神様の愛の計画でした。
そして、食卓で「パンを裂く」というありふれた日常の行為の中で、ついに彼らの目は開かれたのです。

彼らは、歓喜に溢れ、喜びに満たされて言います。
「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか!」
(ルカ24:32)

私たちの人生にも、先が見えない時があります。
しかし、イエス様は私たちの悲しみに寄り添い、同じ道を歩んでくださっています。
特別な出来事がなくても、いつもの平凡な日常の中で、冷え切った私たちの心を内側から熱く燃やしてくださるのです。

今日、わたしたちも、その歩みの中に、共にいてくださるイエス様を迎え入れたいと思います。

一言お祈りいたします。
天の父なる神様。
不安という霧に包まれる時、あなたがすぐそばで共に歩んでくださっていることに気づかせてください。
私たちの心をあたためて、希望をお与えください。
この祈りを、主イエス・キリストの名によって祈ります。
アーメン。

【参考文献】
・ウィリアム・バークレー『ルカ福音書』(ヨルダン社)
・矢内原忠雄『ルカ伝 下巻』(角川書店)
・『新約聖書略解』(日本基督教団出版局)
・玉川直重『新約聖書ギリシャ語辞典』(キリスト新聞社)
・『聖書辞典』(日本基督教団出版局)