「生きた信仰のまことの姿」
2026.2.24 伝道師 青木宗達
新約聖書 ヤコブの手紙 2章15-16節
もし、兄弟か姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖まりなさい。存分に食べなさい」と言いながら、体に必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょうか。
(協会共同訳聖書)
わたしたちの父なる神と、主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなたがたにありますように。
もし、目の前で寒さに震え、今日食べるものにも困っている人がいたとします。
その人に「大丈夫、元気を出して。暖かくして、お腹いっぱい食べてね」と優しい言葉をかけるだけで、上着を貸すことも、ご飯を分けることもしなかったらどうでしょう。
その言葉は、その人を本当に助けることにはならないと思います。
今日読む「ヤコブの手紙」には、「行いを欠く信仰は死んだもの」という小見出しがついています。少しドキッとする厳しい言葉ですが、これは「良いことをしないと神様に嫌われる」という怖い脅しではありません。
最近、SNSなどを見ていると、少し悲しい現実に気づくことがあります。
純粋な信仰や正しい教えについて画面上で熱心に語りながら、その同じ口や指先で、平気で他人を傷つけるような冷たい言葉を投げかけている姿を目にすることがあるからです。
いくら立派な信仰の言葉を並べても、実際の態度が誰かを傷つける刃になっているなら、それは言葉と行動がちぐはぐな状態であり、イエス様が喜ばれる「生きた信仰」とは言えません。
本当の信仰とは、「神様からの大きな愛を受け取ったなら、その喜びや感謝は自然とあふれ出して、誰かに優しくしたくなるものですよ」という、温かい招きなのです。
心の中で「神様を信じています!」と思うだけでなく、実際に手足を動かして目の前の人を大切にすること。
それこそが、信仰が「イキイキと生きている」証拠だと思うのです。
私たちの毎日の生活を振り返ってみたいと思います。
たとえば、電車の中で立っているのが辛そうな方にサッと席を譲ること。
階段の前で、手押し車を下ろせずに困っているおばあちゃんに「お手伝いしましょうか」と声をかけること。
バスの乗り降りで、重いベビーカーを抱えて大変そうなお母さんをそっと手助けすること。
心の中で「大変そうだな」と思うだけでなく、ほんの少し勇気を出して手足を動かしてみるだけです。
私たちが「神様からの愛の通り道」という役割になって、日常の小さな場面から、愛をどんどんおすそ分けしていくのです。
私たちがこのように誰かに優しくできるのは、イエス様がまず、私たちに最高の優しさをくださったからです。
イエス様は、遠い天国からただ「愛していますよ」と声をかけるだけではありませんでした。
実際に私たちの生きるこの世界に来てくださり、私たちの悲しみや痛みにそっと寄り添い、最後はご自身の命さえも十字架で私たちのために差し出してくださいました。
ここに「神様の愛の型」があります。
イエス様の、言葉だけではない「行動を伴う大きな愛」が、今の私たちを包み、生かしてくれています。
今日、このイエス様の愛をたっぷりと受け取りたいと思います。
そして「イエス様、わたしたちを愛してくれたように、私も今日、誰かに優しくできますように」と祈りながら、小さな愛の行動を一つずつ始めてみたいと思います。
お祈りいたします。
天の父なる神様。
イエス様が示してくださった「行動を伴う愛」に、心から感謝いたします。
どうか今日、私たちも「愛の通り道」となり、心で思うだけでなく、誰かに優しさをおすそ分けする小さな勇気をお与えください。
主イエスキリストの御名により祈ります。
アーメン。





