2026.3.9(月)銀座教会正午礼拝 奨励 青木宗達「娘よ、安心しなさい」マタイによる福音書 9章18~26節

日本基督教団 銀座教会 正午礼拝 奨励
「娘よ、安心しなさい」

日時:2026年3月9日(月)PM12:15~12:45
聖書:新約聖書 マタイによる福音書 9章18~26節
奨励:青木宗達
讃美歌①:138番「ああ主は誰がため」(5分)
讃美歌②:312番「いつくしみ深き」(5分)

【聖書朗読】(2分)

18 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
19 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
20 すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。
21 「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。
22 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
23 イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、
24 言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。
25 群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。
26 このうわさはその地方一帯に広まった。

【奨励】(10分)

昨日、3月8日は国連が制定した「国際女性デー」でした。女性の権利向上と社会参加を願い、世界中でその素晴らしい歩みが祝福される記念日でした。本日は、そんな女性の尊厳と「こころ」を誰よりも大切にされたイエス様のお姿を、ご一緒に見つめていきたいと思います。

本日、与えられました聖書の箇所は、二つの奇跡の物語が重なるようにして描かれています。
一人目は、指導者の娘である少女。
二人目は、12年間もの長きにわたり、出血が続く病気に苦しんできた女性です。

ここで少し、当時の背景に目を向けてみたいと思います。 ここに登場する「指導者」というのは、ユダヤ教の会堂をまとめる責任者でした。 確かな地位と名誉を持ち、その地域のみんなから尊敬されている、立派なリーダーだったのです。
普段なら人々の前で堂々としているはずの立派な男性が、人目もはばからずイエス様の足元にひれ伏して「娘を助けてください!」と、父親として、必死に命を乞い願ったのです。
もしかしたら、大の大人が泣きじゃくりながらイエス様に訴えていたかもしれません。

一方で、もう一人の女性はどうだったでしょうか。
彼女が患っていた出血が続く病気は、当時の社会や律法「旧約聖書のレビ記」の規定において「儀式的に汚れている」とみなされていました。
つまり、彼女は、家族と抱き合うことも、友達と食事をすることも、神殿で礼拝をすることも許されず、社会の片隅で誰からも触れられることなく、排斥されていた者として、12年間もひっそりと孤独の中で生きてきたのです。

そんな彼女の耳に、イエス様の噂が飛び込んできました。
彼女は、人だかりができている群衆に紛れ込み、気づかれないようにイエス様に近づきます。
彼女は、あの「みんなから尊敬されている立派な指導者」のように、正面から堂々と「私を癒やしてください!」と声を上げることなどはできません。
自分のような汚れた、価値のない存在が、神の人であるイエス様を煩わせてはいけない。
そんな申し訳ないキモチと、しかし「もうこの方しかいない!」という切実な思いが交錯していたと思います。

彼女は、背後からこっそりと近づきました。
21節にこうあります。

『この方の服に触れさえすれば治してもらえる』

これこそが、彼女のまことの信仰でした。
立派な神学の知識でも、人前で語れるような見事な言葉でもありません。
「ただ、あの方の衣の房にさえ触れることができれば」。
彼女は、イエス様が着ておられた上着の隅にある、「房」フリンジまたはタッセルのような小さな飾りに向かって、後ろからそっと震える手を伸ばしたのです。
それは、疲れ果て、自分には何の力もないと知っている無力な人間が、最後に絞り出した、ひたむきで純粋な信仰そのものでした。

イエス様は、みんなから尊敬されている立派なリーダーの「ひれ伏すような大きな願い」にも、社会の底辺で苦しむ孤独な女性の「背後から触れるだけの小さな願い」にも、全く区別、差別することなく、同じように大きな愛をもって応えられました。

彼女が衣に触れた瞬間、それは「天の扉が開けたように」病は癒されたのです!
しかし、イエス様の恵みは単なる「病気の治療」だけでは終わりません。
イエス様は、娘の命の危機にある指導者の家へ急いでいたにもかかわらず、わざわざ急いでいる歩みを止め、振り返り、彼女をじっと見つめられました。

彼女はイエス様に気づかれたとき「あぁ!触れたことが見つかってしまった!きっと激しく怒られる!」と、恐怖で震え上がっていたはずです。
しかし、イエス様が真っ先にかけられた言葉は、叱責ではありませんでした。
イエス様はこう言われたのです。

22節
「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

「娘よ」。
この驚くべき一言に、イエス様の愛のすべてが込められています。
12年間、誰からも忌み嫌われ、自分自身さえも価値がないと思っていた彼女に向かって、イエス様は「あなたは、愛する私の娘だ!」と宣言されたのです。
さらに、聖書の元の言葉、原文のギリシャ語では「元気になりなさい」という言葉は、「タルセオー(θαρσέω)」という命令形であり、「もう恐れなくていい、安心しなさい!」という深い意味の命令口調でありながら、愛ある優しい言葉であります。

「わたしはあなたを叱らないよ。もう恐れなくていいよ。もう隠れなくていいよ。」
というイエス様のお心がここにあるのです。

あなたは神に愛され、完全に受け入れられているのだと、彼女の「こころ」と「思い」を、根底から癒やしてくださったのです。
そして、この女性の痛みに寄り添ったあと、イエス様は急ぎ足で指導者の家に行き、死の床にあった少女を癒やし、手を取って起き上がらせました。

現代を生きる私たち、とりわけ女性の皆様の中にも、この12年間患った彼女の姿に深く共感される方が多くいらっしゃるのではないでしょうか。
誰にも言えない心や体の不調を抱えながら、家族のため、職場のため、あるいは教会のためにと、じっと痛みをこらえ、ほほえんでいる。
社会の期待や役割の中で「私が我慢すればいいのだ」と自分を後回しにし、孤独な思いを抱えている。
「もう私はこのままで終わってしまうのだろうか」と、心の中で涙を流し続けているような思いをしたことが、私たちにもあるかもしれません。

愛する皆様。
レントのこの期間、私たちはイエス様の十字架を仰ぎ見ます。
イエス様は、遠く離れた天から私たちをただ眺めているお方ではありません。
わたしたちの流す涙を、ご自身の痛みとして引き受け、共に歩み、そして、あの十字架にかかってくださいました。
しかし、その十字架は決して、死や悲しみだけで終わるものではありません。
それは、死に打ち勝つ「復活の朝の明るい希望」へと繋がっていくからです。

もし、今、または、これから、言葉にならない苦しみが訪れた時には、今日の「指導者のへりくだった姿」、また、「12年間病に苦しんだあの女性のように」、その震える私たちの手を、そっとイエス様に差し伸ばしてみたいと思います。

このレントの期間、十字架に示されたイエス様の無限の愛を覚え、その大きな恵みにすっぽりと包まれ、明るい希望をもって、今日からの歩みを進めてまいりたいと思います。

【祈祷】

一言お祈りいたします。
愛する天の父なる神様。
私たちの小さな信仰を受け止め、「娘よ、息子よ」と優しく呼んでくださる愛を感謝いたします。
十字架の深い恵みと復活の明るい希望が、隠れた痛みを持つお一人お一人を包み込んでください。
救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。