JTJ宣教神学校説教演習 青木宗達「苦難の点、恩寵の線」~ローマ人への手紙 5章3-5節にある希望の物語

日時: 2026年2月10日(火) PM19:50~20:10
聖書: 新約聖書  ローマ人への手紙 5章3-5節(新改訳2017)
説教: 青木宗達
説教タイトル: 「苦難の点、恩寵の線」~ローマ人への手紙 5章3-5節にある希望の物語~

【聖書朗読~会衆と声をあわせて】(1分)
ローマ人への手紙 5章3-5節(新改訳2017)

3 それだけでなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
5 この希望は失望に終わることがありません。

説教】(19分)

「神様、なぜ私に困難をあたえるのですか!」
皆さんは、心の底からそう叫んだ夜があるでしょうか。

私たちは、将来、神様の愛を伝える「牧師の卵または伝道師の卵」として、この場所に集まっています。 しかし、私たちはそれ以前に、痛みを感じ、血の通った一人の弱い人間です。

私自身もこれまでを振り返ると、泥臭い現実がありました。 時として、内臓をえぐられるような深い「悲しみ」や、理由のわからない理不尽な「痛み」。

その渦中にいる時、私はただ痛みに打ちのめされて、「なぜ、私だけが」「神様はおられるのに、どうしてこんな試練を与えるのか」と、苦痛と怒りに震えていました。 天に向かって問いかけても、返ってくるのは沈黙だけ。まるで、暗闇の中を手探りで歩くような日々でした。

これが、「神様の沈黙」と思えた苦難の「点」です。

皆さんの歩みの中にも、そんな夜があったかもしれません。 あるいは、これから私たちが遣わされていく牧会の現場には、まさに今、その叫びの中にいる人々が待っています。 その時、私たちはこの「苦難」をどう受け止め、どう語ればよいのでしょうか。

今日は、パウロがローマの信徒に語った言葉を通して、この孤立した「苦難の点」が、いかにして「恩寵の線~神様の恵みの線」へと変えられていくのか、その希望の物語をご一緒に聴いていきたいと思います。

【観察】 

まず、ローマ人への手紙5章3節を見てみましょう。 パウロはここで、びっくりするようなことを言っています。

  「それだけでなく、苦難さえも喜んでいます。」

正直に言いましょう。私たちは生身の人間です。苦しみの真っただ中にいる時に、「これが私の喜びです!」なんて、そう簡単には言えません。 その時、私たちの目の前にあるのは、全体像の見えない、ただの黒いインクの「点」です。前後の脈絡もなく、ただ「ポツン」と打たれた痛み。それが苦難の現実です。

でも、パウロはそこで立ち止まりません。彼は、この「点」が、ある方向へ向かって伸びていくプロセス、つまり神様の恵みの「線」の一部であることを「観察」しているんです。

5章3-4節
  「それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」

ここには、神様が私たちの人生に引いてくださる、明確な愛の線があります。

【本論】 

では、神様はどのようにして、私たちの痛みの「点」を、恵みの「線」に変えてくださるのでしょうか。

1. 恵みに支えられた「忍耐」 

第一に、「苦難が忍耐を生み出し」ます。 ここで言う「忍耐」とは、ただ歯を食いしばって、嵐が過ぎるのを待つような「我慢大会」のことではありません。 聖書の言う忍耐とは、「逃げ出したい現実から、逃げない強さ」のことです。 「もうダメだ、やめてしまいたい」と思う場所で、「いや、神様がここに置いてくださったのだから、ここには意味があるはずだ」と信じて、その場に踏みとどまる力です。

なぜ、私たちは逃げ出さずに踏みとどまることができるのでしょうか? それは、私たちが気づく前から、すでに神様の恵みが先回りして私たちを支えているからです。 苦難という「点」が打たれた瞬間、そこにはすでに神様の支えという「線」が引かれ始めているのです。

2. 練り上げられる品性「練られた品性」 

第二に、「忍耐が練られた品性を生み出し」ます。
「練られた品性」とは、一言で言えば「本物の強さ」です。 苦難という火を通っても燃え尽きない、純金のような、混じりけのない心のことです。

神様の目的は、単に問題を解決することだけではありません。その問題を通して、私たち自身の内側を変え、成長させることにあるのです。

ここで少し、私たちの身近な例で考えてみましょう。
神様の愛の目的がどこにあるのか、わかりやすい例話があります。

<お小遣いの例話> 

かわいい子どもにお小遣いをあげる場面を想像してください。 例えば、子どもが目を輝かせてこう言ってきたとします。 「父ちゃん父ちゃん! あのオモチャ、どうしても欲しいんだけど1000円するんだ! 今すぐ1000円ちょうだい!」

皆さんならどうしますか? すぐにあげますか? もちろん、目に入れても痛くない自分の子どもです。すぐに買ってあげたい気持ちはやまやまです。

でも、本当に子どものことを愛しているなら、安易に全額をポイポイあげるでしょうか? もし、何でもかんでもすぐに手に入るようになったら、その子はどうなるでしょう。「欲しいものは言えばすぐ手に入る」と、人生を安易に考え、感謝を知らない人間になってしまうかもしれません。 親の心は揺れます。「あげたい。でも、この子の将来のために、今は我慢させなければ…」。

そこで父親は、愛を持ってこう言います。 「わかったよ。500円は父ちゃんが出してあげる。でも、あとの残りは、おうちのお手伝いをするとか、自分のお小遣いをコツコツ貯めて買おうね!」

子どもにとっては、まさに「人生最大の苦難到来」です! 「なんで全部くれないんだ!」と泣きじゃくるかもしれません。彼にとって、不足分の500円は、理不尽な「意地悪」であり、痛みそのものです。

しかし、10年後、かつての少年はどうなっているでしょうか。 我慢して貯金したり、労働の尊さを学んだり、手に入れた時の喜びを知ったり、様々な経験を経て「お金の大切さ」、いや、お金の価値以上に「自分の人生の大切さ」に気づくのです。 「ああ、あの時、父ちゃんがすぐに買い与えなかったのは、意地悪じゃなくて愛だったんだ」と。

この父親と子どもの関係は、まさに「父なる神様と私たちとの関係」とまったく同じなのです。

神様は、私たちを単に甘やかすことはなさいません。 時には、私たちの求めに対して「すぐに答えを与えない」という選択をされます。 時には、私たちの人生に「不足」や「苦難」という点を置かれます。

それはなぜでしょうか? それは、私たちの感覚では計り知れないアガペの愛、無条件の愛で愛しておられるからです。 その愛があるからこそ、意味ある経験を与え、私たちの人格を「練られた品性」へと導こうとしておられるのです。 神様は、私たちがただ「欲しいものを手に入れる」ことよりも、私たちが「キリストの似姿へと成長する」ことを、何よりも願っておられるのです。

<小さな証し> 

実は、私自身もそのような経験を通らされた一人です。 私はかつて、生死をさまよう重度の肺の病気にかかりました。わずか半年の間に、実に6回もの大手術をするという壮絶な経験をしたのです。 その時、私は神様に問いかけました。「なぜですか!?」と。 そして、神様へのやり場のない怒りをぶつけました。

当時、私が入院していた病棟には、まさに「人生の夕暮れ時」を迎えたご高齢の方々がたくさんおられました。 彼らの口から出るのは、ため息と、これまでの人生への愚痴ばかりです。 「なんで人って生きてるのかね…」 「私の人生は、一体なんだったんだろうね…」

彼らにとって、毎日の風景とは何だったと思いますか? それは、ベッドに横たわって見上げる天井と、そこにできている「シミ」を数えることだけでした。 来る日も来る日も、ただ天井のシミを数えて過ごす。 本来なら平安であるはずの「人生のフィナーレ」が、ただ虚しい「点」の連続になっていたのです。

私は、自分の痛みと闘いながら、カーテン越しにその様子を、涙しながら見聞きしていました。 そして、そのおじいちゃん、おばあちゃんたちの深い孤独とため息を聞いているうちに、私の心に、ある熱い思いが湧き上がってきたのです。

「このままでは終わらせたくない。このおじいちゃん、おばあちゃんたちに、本当の生きる意味を伝えたい」 「絶望している今の状況から、希望を伝えたい」 「イエス様の愛を伝えて、彼らの『人生夕暮れ時の救出劇』を、私が始めなければならない」

自分の痛みに叫んでいた私が、人の痛みに寄り添いたいと願う者に変えられていたのです。 これが、神様がくださった「練られた品性」でした。

私はそのために、牧師、伝道師になろうと決心しました。そして今、導かれてこのJTJ宣教神学校に通っています。 入院して苦難だった「点」が、愛と希望の「線」に変わった時、私は震えるほど感動しました。 「全てに意味があったんだ。むしろ、あの苦難を経験しなければ、私は今、この場にいることもなかったのだ」と思うのです。

3. 決して欺かない「希望」
そして第三に、「練られた品性が希望を生み出す」のです。
5節にある通り、「この希望は失望に終わることがありません。」

ローマ8章28節には「万事が益となる」という言葉があります。 苦しみの渦中にいる時、この言葉は「きれいごと」に聞こえるかもしれません。 でも、現代を生きる私たちがこの希望をもっとリアルに感じるために、わかりやすく言うならば、こういうことです。

「あなたの人生のどんな悲劇も、神様の手にかかれば、最後には最高の『伏線回収(ふくせんかいしゅう)』になる」

一見「最悪」に見える出来事が、ラストの感動を生むために不可欠な伏線だったと気づく。あの感覚です。

私たちの人生という物語を書いている「著者」は、全知全能の神様です。 神様は、私たちの人生における「失敗」「病」「別れ」といった、一見するとマイナスでしかない「点」を、やがて来る栄光の場面のための「伏線」として配置しておられるのです。

私の病床での体験がそうであったように、無秩序に打たれたインクの「点」が、実は見事な一枚の絵画を描くための伏線であったと気づく日が必ず来ます。

現在、苦しみのただなかにおられる方も、今はまだ、物語の途中です。 だから、今は分からないだけなのです。 でも、希望は私たちを失望させません。 神様という偉大な著者は、最後に必ず、すべての伏線を見事に回収して、ハッピーエンド以上の「魂が震える感動」を、私たちに与えてくださるのです。

【適用】

では、最後に、私たちはこの希望をどこに見るべきでしょうか。 私たちの人生のすべての「点」と「線」が指し示している、ただ一人のお方。 それは、イエス・キリスト様です。

1. イエス様こそが、苦難の「点」を引き受けられた
イエス様こそが、全く罪のないお方でありながら、最も理不尽な苦難の「点」を打たれました。 十字架の上でイエス様が味わわれたのは、単なる肉体の痛みだけではありません。 それは、全宇宙の中でたった一人、深い暗闇と罪の重圧の中に置かれるという「究極の孤独」でした。

イエス様は、私たちが人生で味わう「神様の沈黙」と「痛み」のすべてを、その身に引き受けてくださったのです。

2. 十字架という「恩寵の線」
しかし、神様は、その十字架という最も暗い「死の点」を、復活という「命の線」へと繋げてくださいました。 イエス様の十字架があったからこそ、私たちは罪赦され、神様の子とされる道が開かれたのです。 これこそが、宇宙最大の「伏線回収」であり、私たちが宣べ伝える「福音の核心」なのです。

【結び】
愛する皆さん。 これから遣わされる現場で、私たち自身も、また私たちが仕える人々も、説明のつかない苦難の「点」に直面するでしょう。 その時、どうか目を上げて、イエス様を見てください。

私たちの人生という物語の著者は、私たちを愛するために命を捨てられたイエス様です。 このお方がペンを執っておられる限り、私たちの人生のどんな苦難も、決して無意味な「点」では終わりません。 それは必ず、イエス様の似姿へと変えられる「恩寵の線」となり、神様の愛を証しする希望の物語として完成します。

この「希望の神様」に信頼し、今日からまた、それぞれに委ねられた場所へと出て行こうではありませんか。

【祈祷】
一言お祈りいたします。 天の父なる神様。 あなたが私たちの痛みのすべてを知り、共に担ってくださることを感謝します。 私たちの人生の「点」を、あなたの十字架と復活の「恵みの線」に結びつけ、あなたに従う者とならせてください。 私たちの救い主イエス様の御名によりお祈りいたします。 アーメン。