銀座教会正午礼拝 奨励
「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」
日時: 2026年2月9日(月)PM12:15~12:45
聖書: 新約聖書 マタイによる福音書 6章1~4節
奨励: 青木宗達
讃美歌: 225番「すべてのひとに」、270番「信仰こそ旅路を」
【聖書朗読】(1分)
1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
3施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならないあなたの施しを人目につかせないためである。
4そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
(新共同訳聖書)
【奨励】(10分)
今日、私たちに与えられました聖書の箇所は、主イエス・キリストが語られた「山上の説教」の一節であり、「施し」について語られている御言葉です。
この箇所の情景を少し丁寧に観察してみたいと思います。
2節の前半にこうあります。
「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」
イエス様はここで、とても興味深い、少し風刺の効いた表現「ラッパを吹き鳴らす」という言葉を使っておられます。
ユダヤの文化では、「施し」や「おもてなし」を重要視し、大切にする習慣があります。 これは、この当時も、そして現代の21世紀においても変わることがありません。 神殿や会堂で貧しい人への施しをするとき、実際に「ラッパを吹いて人を集める習慣」があったかどうかは定かではありませんが、イエス様はここで、人々の心の奥にある「ある傾向」を鋭く突いておられます。
それは、「自分の善行を人に見てもらいたい」「賞賛されたい」という強烈な自己顕示欲、または承認欲求です。
イエス様は、そのような人々を「偽善者 (ὑποκριτής)」と呼ばれました。 この「偽善者」という言葉、新約聖書の原文ギリシャ語では、「ヒュポクリテース」と言い、元々は「役者」や「仮面舞台俳優」を意味する言葉です。つまり、彼らは「信仰深い人」という仮面をつけ、人生という舞台で、「敬虔な自分」を演じている「役者」のようなものだ、とイエス様は痛烈に指摘されたのです。
彼らの目的は、貧しい人を助けることそのものよりも、「私はこんなに立派なことをしている」と人々に認められ、拍手喝采を浴びることでした。
2節の後半で、イエス様は厳しくこう言われます。
「はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」
人の称賛を求めた時点で、天の父からの報いはもうない、という大変厳しいお言葉です。
それに対して、イエス様が私たちに求められたのは全く逆の生き方でした。
3節にこうあります。
「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」
つまり、わかりやすく説明すると「自分の善い行いを、自分自身にさえ意識させないほど自然に、無意識に行いなさい」ということなのです。
「右の手のすることを左の手に知らせない」。
これは文字通りに考えると不可能です。自分の体の一部がしていることを、自分が知らないはずがありません。 しかし、ここでイエス様が求めておられるのは、心に映し出される「動機の純粋さ」なのです。
私たちは、神様の恵みによって救われ、2つの戒め「神様を愛し、隣人を愛するように」と招かれています。
しかし、正直に自分の心をのぞきこむとき、どうでしょうか?
誰かに親切にする時、奉仕をする時、心のどこかで「ありがとうと言われたい」「立派だと思われたい」という思いがよぎることはないでしょうか? あるいは、「これだけやったのだから、神様は私を祝福してくれるはずだ」という、神様に対する取引のような思いが隠れてはいないでしょうか?
もし私たちが、人からの評価や、見返りを求めて善い行いをするならば、その中心にいるのは「神様」ではなく「自分自身」なのです。 そして、それは愛の形をしただけの「自己愛」に過ぎません。
イエス様が私たちに求めておられる「聖さ」とは、そのような計算高いものではありません。 自分が良いことをしたことさえ忘れてしまうほどに、愛を行うことが日常となっている。 これこそが、神様が私たちに望んでおられる、姿なのではないでしょうか。
4節をお読みいたします。
「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」
誰が見ていなくても、神様だけは見ていてくださる。これこそが、私たちの信仰生活の土台だと思うのです。
「報い」とは、金銭的な祝福や地上の成功のことではなく、神様との愛の交わりが深まることこそが、最大の報いなのです。
しかし、私たちはここで立ち止まらなければなりません。 「右の手のすることを左の手に知らせないほど、純粋に愛しなさい」と言われて、「はい、今日からそうします!」と簡単に実行できる人がいるでしょうか?
むしろ、この言葉を聞けば聞くほど、私たちは自分の内にある「偽善」に気づかされ、愕然とするのではないでしょうか。どうしても人の目が気になってしまう。どうしても感謝されたいと思ってしまう。私たちは、自分の力だけでは、どうしても「役者」の仮面を脱ぐことができない弱さを持っています。
だからこそ、私たちはイエス・キリストを必要としています。
私たちのために十字架にかかられたイエス様の生涯こそ、まさに「右の手のすることを左の手に知らせない」、完全な愛のお姿でした。 十字架の上で、イエス様はご自分の命を「施し」として、私たちに完全に与え尽くされました。 そこには、売名行為も、自己顕示欲も一切ありません。 ただ、私たち迷える子羊への純粋な愛だけがありました。
イエス様は、十字架の上で、私たちの罪を、引き受けて死んでくださいました。 そして、三日目に復活され、私たちの内に、今も生きておられるのです。
私たちが自分の力で「純粋な人」になろうと頑張る必要はありません。イエス様を心にお迎えし、このお方に心を明け渡していく、それだけでよいのです。
私たちが「イエス様、どうか、あなたの純粋な愛で私の心を満たしてください」 そう祈り求める時、神様の恵みの力が私たちの内なる心を変え、「右の手のすることを左の手に知らせないほど」の純粋な愛に満ち溢れた行いへと変えられていくのです。
最後になりますが、この銀座の地、また人が多く集まる場所、そして仮想空間であるインターネットの世界など、現代は「見られる」ということが、大変多く感じられる世の中であります。
しかし、私たちは今日、ここから遣わされていくそれぞれの場所で、隠れたことを見ておられる父なる神様の眼差しを覚え、御子イエス様の十字架の恵みに支えられ、聖霊の導きに信頼して、歩んでまいりたいと思います。
【祈祷】
一言お祈りいたします。
天の父なる神様。
人に見られることばかりを気にしてしまう私たちです。
右の手のすることを左の手に知らせないほどの、純粋な心と愛による行いができるように私たちを成長させてください。
救い主イエス・キリストの御名によりお祈りいたします。
アーメン。











