銀座教会正午礼拝 奨励
日時: 2026年1月27日(火)PM12:15~12:45
聖書: 新約聖書 マタイによる福音書 4章12~17節
奨励: 青木宗達
讃美歌: 404番「山路こえて」、529番「あめなるよろこび」
【聖書朗読】(1分)
12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
15 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
16 暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
(新共同訳聖書)
【奨励】(9分)
本日与えられました聖書の箇所は、主イエス・キリストがいよいよ公けの活動、「公生涯」を始められる場面です。しかしそれは、華々しいファンファーレが鳴るような明るいスタートではありませんでした。
先駆者である洗礼者ヨハネが権力によって捕らえられる。正義が踏み倒されるような「暗さ」と「緊張」の中で、イエス様の歩みは始まりました。
12節、13節をお読みいたします。
「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」
イエス様は、目的地カファルナウムに向かわれるのですが、そこに至るまでの進路に思いめぐらしたいと思います。
今日の聖書箇所の文脈をたどると、イエス様はそれまで「荒野でのサタンの誘惑」に、あわれておられました。荒野から北上してカファルナウムへ向かうのは、大変な長距離の旅路なのです。実は、スタート地点の荒野から西へわずか30km進めば、神殿のある大都市エルサレムがあります。「世界を変える教え」を広めるなら、人が集まる都エルサレムで始める方が効率的です。
しかし、イエス様はあえてその逆、北へと向かう過酷なルートを選ばれたのです。荒野からナザレを経由して、湖畔の町「カファルナウム」へ。その距離、合計で約135キロです。
135キロと言われてもピンとこないかもしれませんが、ここ銀座教会から移動するとなれば、西方面なら箱根と富士山を超えて、静岡県沼津市あたり。北方面なら長野県軽井沢のあたりまで行くのと、ほぼ同じ距離です。新幹線もない2000年前の話です。舗装路ではなく、岩だらけの荒野を含む険しい道のりでした。それを5日も6日もかけて、足を痛めながら、イエス様は歩かれたのです。
徒歩であったか、あるいは何か乗り物を用いたかは定かではありません。しかし、どのような手段であったにせよ、まぎれもない重要な事実は、イエス様が向かわれた先が華やかな都エルサレムではなく、「痛みや暗闇を抱えた人々が集う場所」、当時「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ見下されていたカファルナウムであったということなのです。
このカファルナウムは、かつて旧約聖書の時代、北イスラエルにアッシリア帝国の侵略があり、多種多様な人種が入り交じり、信仰的にも純粋ではないとされる、ある種の暗闇を抱えた土地でした。なぜイエス様は、あえてそのような場所に行かれたのでしょうか?実はここに、21世紀の今も変わらぬ普遍的な神様の愛の「方向性」が示されています。
16節をお読みいたします。
「 暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
この出来事には、福音の真髄があります。神様の愛は、一方的に彼らを照らし、先回りの愛をもって、イエス様という光を照らしてくださるのです。
ここ銀座の街は、昼も夜も多くの光に溢れています。しかし、どれだけ人工の光が明るくても、私たちの心の奥底にある孤独や、将来への不安という暗闇を照らすことはできません。その心の深淵に届くのは、ただ一つ、イエス・キリストという「まことの光」だけなのです。
この光の中で、イエス様は第一声を放たれました。
17節です。「悔い改めよ。天の国は近づいた」
「悔い改めよ」。この言葉を聞くと、私たちは「過去の悪いことを反省しなさい」と迫られているように感じて、心が重くなるかもしれません。もちろん、自分の罪を認めることは大切です。しかし、聖書が語る本来の意味はもっと能動的で、希望に満ちています。
「悔い改め」とは、分かりやすく言えば「神様への立ち返り」、方向転換のことです。
それは、過去をほじくり返すことではなく、そのままの自分が「向きを変える」ということです。
今まで背中を向けていた神様の方へ、くるりと向き直ること。暗闇の方を向いていた顔を上げて、光の方を見ること。
それが、聖書の語る「悔い改め」です。
今日の箇所で最も大切なことは、この「光」も「天の国」も、抽象的な概念ではないということです。「光」とは、イエス・キリストご自身のことです。「天の国」とは、イエス・キリストがおられるところ、そのもののことです。イエス様は、私たちの暗闇を取り除くために、自らが十字架という最も深い暗闇を通られました。そして復活し、消えることのない光となられたのです。
私たちは、自分で無理に光を作る必要はありません。ただ、射し込んできた光であるイエス・キリストを受け入れ、顔を上げて歩み出すこと。それが、今日から始まる新しい一歩です。
最後になりますが、この正午礼拝の後、皆様は、それぞれの生活の場へ戻られると思います。職場へ、家庭へ、あるいは重荷のある場所へ戻られるかもしれません。しかし、いつも覚えておきたいことがあります。それは、光であるイエス様は、遠いエルサレムではなく、私たちのいるその場所、一人ひとりのすぐ隣に来ておられます。このイエス様に信頼し、イエス様を見上げて、共に歩んでまいりましょう。
【一言お祈りいたします】
天の父なる神様。
私たちの心の暗闇を、あなたの光で照らしてくださり、ありがとうございます。
今一度、あなたの方へ向き直って、新たな一歩を踏み出すことができますようにお導き下さい。
私たちの救い主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。 アーメン。







